レポート
2024.07.08

埼玉から海へ直通! 関東の物流を支えた二本の大動脈

皆様はじめまして。
埼玉県行田市の観光PR隊、忍城おもてなし甲冑隊で足軽を務めます「やいち」と申します。

本日は、海のない埼玉県の中でも行田がいかに海と繋がっていたか、というお話をさせていただきます。

大河川に挟まれた行田

  1. 下中条河岸
  2. 須賀河岸

行田は埼玉県の中でも北部に位置しており、海から50km以上も離れております。

我々のような内陸に住む人間が海に行く場合、現代であれば自動車や鉄道を使用するのが一般的ですが、かつては舟で川を下る、という方法を取ることも少なくなかったのです。

舟(船)を使った人や荷物の輸送を舟運(しゅううん)や水運と呼びますが、行田は北に利根川、南に荒川という関東を代表する河川が流れており、それらを利用した輸送、「河川舟運」のお陰で非常にした繁栄した土地でもあるのです。

 

江戸の開発と舟運の発達

舟運は古代から行われていました。人間が自らの足で移動・運搬するよりも、はるかに楽で効率的だからです。

利根川や荒川での舟運がいつ頃から行われていたのか、はっきりとはわかっていませんが、市内に多くの古墳がある行田では、古墳時代にはすでに舟運が行われていたのではないかと考えられています。

戦国時代には関東の広い範囲を支配下に置いた後北条氏が、舟運で利根川を利用していたという記録が残っています。

利根川・荒川で本格的に舟運が行われるようになったのは、徳川家康の江戸入府がきっかけだったようです。

 

1590年、豊臣秀吉の命により関東に移封させられた徳川家康は、小さな漁村だった江戸を拠点と定め、開発を進めました。

江戸城の建造には大量の石や木材が必要になりますし、家康に従い江戸に移り住んだ大勢の家臣やその家族がおり、町を開くために多くの労働者も集まりました。

建築資材や、彼らの生活に必要な衣類や食料品など、そういった大量の物資の輸送に舟運は大活躍するのです。

江戸に幕府が開かれて年貢の徴収が本格化すると、年貢米の輸送にも多くの場合船が使われ、関東一円ではそれぞれの地域の川を下って江戸へと向かいました。

利根川・荒川では、米以外にも各種の農産品、材木や炭等が江戸へと運ばれました。

江戸から川を上る船には塩や魚、下肥、江戸や上方で作られた加工品が多く積まれていたようです。

忍藩の河岸

  1. 酒巻河岸
  2. 酒巻集落

江戸時代以降、荷物の積み下ろしを行う船着き場のことを、関東地方では河岸(かし)と呼ぶようになりました。

幕府は公認の河岸の選定と整備を行いました。江戸時代の中でも河岸の場所や数は変化しましたが、非公認の河岸も多くあったようです。

現在の行田とその周辺の地域は、忍城を拠点とした忍藩が治めていました。

江戸時代後期の行田近辺には、利根川沿いに須加、酒巻、下中条、荒川では五反田、大芦、新川等に河岸があったとの記録があります。

特に酒巻と新川の二か所は、忍藩が利用する公式の河岸、御用河岸として定められ、年貢米や藩内の収穫物の積み出しが行われました。

河岸は、人や物資の中継地・集積地としての機能もあり、大きな河岸では飲食店や宿が立ち並ぶなど、宿場のように賑いを見せたそうです。

歴史に残る大工事が流通を変える

  1. 新川河岸と新川集落

かつての荒川・利根川は、蛇行と分離・合流を繰り返す複雑な流路で形成されており、大きな氾濫を起こすことも珍しくありませんでした。

江戸に幕府が開かれると、治水や流通の改善、耕作地の拡大等さまざまな目的で、大規模な改修工事が行われることになります。

東京湾へと流れていた利根川は、現代の埼玉県羽生市のあたりで東に流路を変更し、千葉県の銚子で太平洋へ直接注ぐようになりました。

利根川に合流していた荒川は、埼玉県熊谷市で南に流路を変更し、埼玉の中央部を抜け、現在の隅田川で東京湾に注ぐ形へと変更されました。

これらの工事は、後に利根川東遷、荒川西遷と呼ばれることになります。

特に、黒潮や冬季の西風の影響で難しい航路であった、房総半島の南を周り東京湾に入る経路を通らずに、銚子から利根川を遡り、関宿で江戸川を南下し江戸へ通じる経路(内川廻しと呼ばれる)が出来たことは非常に重要でした。

東北地方から太平洋岸を南下して来た舟の多くは、利根川を通り、比較的安全に江戸へと荷物を運ぶことができるようになりました。

明治時代に入っても、利根川を蒸気船が行き交うなど、しばらくは舟運の時代が続きましたが、治水工事により河岸が減少し、鉄道や自動車・道路網の発達により陸上運送が盛んになってくると、河川の利用は徐々に減っていきました。

貨物輸送としての舟運は、昭和初期にはほとんど行われなくなったようです。

かつて河岸があった場所を訪れても、巨大な護岸が整備され、流路も変わってしまった現代では、その痕跡を見つけることは難しいかもしれません。

とはいえ、人々の安全・安心な暮らしを守るために整備された現代の河川の姿も、なかなか見応えがあるもの。

のどかな堤防の上を散歩しながら、多くの舟が行き交い賑やかだった頃の姿を思い浮かべるのも、おもむきがあって良いのではないでしょうか。

 

 

レポーター紹介

足軽やいち

行田市観光PR隊「忍城おもてなし甲冑隊」武将を支える縁の下の力持ち

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