行田市観光PR隊忍城おもてなし甲冑隊、
我こそは忍城成田軍の赤備え酒巻靱負にございまする。
戦国時代、天下統一を果たした豊臣秀吉が唯一落とす事が出来なかった城として歴史に名を馳せた城、我らが居城忍城。
水攻めにも屈しなかったこの忍の地は古より水と深く関わって参った。
天正十八年の忍城攻防戦では敵将である石田三成が丸墓山古墳の上に陣を張り水攻めを指揮したと言われておる。
この丸墓山古墳を始め、 9基の大型古墳が連なる『埼玉古墳群』はもちろん、市内では数々の古墳を見る事も出来る。
現在の埼玉古墳群の周辺は田んぼや住宅が続く
平坦な土地であるが古墳が作られた当時は河川によって形成された複雑な地形であった。
海無し県である埼玉ではその河川が重要な役割を果たしておったのだ。
此度は忍の地に残された古墳や遺跡を通じて河川そして海との関わりを紐解いて参ろうと思う。
埼玉古墳群の中にある将軍山古墳と鉄砲山古墳、そして市内にある八幡山古墳からは横穴式石室が発掘されておる。
その横穴式石室を造る為には多くの石が必要となる。が、埼玉古墳群周辺では適した石を手に入れることが出来ないため、はるばると遠方より運んできたようだ。
運ばれてきたのは主に「緑泥石片岩」と「房州石」
緑泥石片岩は埼玉県内の長瀞町周辺で産出される結晶片岩であり、石室の石材として広く用いられていた。
房州石は千葉県富津市の鋸山周辺で産出される凝灰質砂岩で、埼玉県内では将軍山古墳でのみ確認されている。離れた場所からこれらの石材を大量に運んでくる為に水上交通は必須であったのであろう。
船を使い河川を使う事で陸の道を行くよりもはるかに多くの石材や物を運ぶ事ができるのだ。ちなみにどのくらいの物が運べるのか、米一俵を基準に考えてみると
・人1人=1俵
・馬1頭=2~3俵
これに対して…
・船1艘=20~30俵
・大型船=100石(約250俵)を運ぶ事ができたのだ。
河川を通る水上交通は、陸の道と接続することで機能する。水路によって集まったものは陸路によって更に各地へ運ばれていくのだ。
行田市内にある小針遺跡や築道下遺跡はその水路と、陸路が交わる場所にあり、出土された土器や副葬品より要となる港があったと考えられている。
利根川、荒川の流路は埼玉古墳群が築造された頃は
現在とは大きく異なり、埼玉古墳群に近い場所を流れておった。
かつて北関東西部地域から流れる河川が利根川に集まり、北関東からはここを通過しない限り南関東や東京湾に出る事が出来ぬという、まさに低地と大きな川が交わる水上交通の要の地であったのだ。
このような大きな河川交通では河川や陸路、船の停泊地の整備が必要であったであろう。これらの整備は一地域の首長だけではなく多くの地域の首長同士が交流を持ち、力を合わせ実施していたのではなかろうか。
埴輪や石材など生産地から遠く離れた場所から出土された物からもその様子を垣間見る事ができる。
これらの事から埼玉古墳にはきっと大きな権力を握った首長が埋葬されて居るのであろう。埋葬された人々はこの川をとても重要な物として考えていたのやもしれぬな。
埼玉古墳群やその周辺地域の河川との繋がりはこの事だけでなく、実は絵や歌としても残されておるのだ。
地蔵塚古墳の石室には船に乗り長い櫂を持って船を漕ぐ人の姿が刻まれておる。
さすがに石室の図を写し絵にすることは阻まれる故、此度酒巻が模写を致した。
船の周りに描かれている線は波立つ水面のようにみえるであろう。埼玉古墳群に隣接する前玉神社では万葉集の歌二首からそれを見る事ができる。
1つ目は『埼玉の津に居る船の風いたみ 綱は絶ゆとも言な絶えそね』
歌の意味は「埼玉の津に泊まっている船のように、風が強くてもやい綱が切れてしまっても、2人の間の愛の言葉だけは絶えないで欲しい」
この歌からは埼玉の津という港、そして船があったことがうかがえる。
2つ目は『埼玉の小埼の沼に鴨そ翼きる おのが尾に降り置ける霜を掃ふにあらし』
この歌に出てくる埼玉の地は新編武蔵野国風土記稿で「小埼沼の辺これ埼玉津の旧蹟なりと云」と記されておる。1つ目の歌と同様、港があった事がわかる歌である。
前玉神社の本殿にあるこの左右の灯篭にはこのような浪漫溢れる歌が刻まれておるのだ。
万葉集が作られたのは古墳時代より100年程後の時代。
時を経ても埼玉の地が水と深い関わりを持つ地であった事を知る事ができる。
埼玉県に海はなくとも海に繋がる川がある!
これらの河川は古の時代より幾多の時を経て今もこれからも我らと共に歴史を紡いでいく。
是非、古の浪漫を感じに行田を訪れてみてはいかがかな?皆の来訪を忍城にてお待ちしておりまする!
イベント名 | 古の浪漫は河川の傍にあり!埼玉古墳!酒巻の探求 |
行田市観光PR隊「忍城おもてなし甲冑隊」
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