我こそは忍城成田軍の赤備え!
成田家家老酒巻靱負にございまする。
我らが居城である忍城は戦国時代に天下統一を果たした豊臣秀吉が唯一落とすことが出来なかった難攻不落の城にございまする。
天正十八年の忍城攻防戦では、敵将である石田三成の水攻めにも決して屈する事無く
忍の地を守り抜いたという歴史は我らの誇りである。
その歴史はかつて小説や、映画「のぼうの城」等で世に広く知られるようになったのだが、
我らが行田には他にも誇れるものがまだまだございまする。
此度酒巻が皆様に紹介したいのは、行田の日本遺産にございまする。
「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」として埼玉県唯一の日本遺産に認定されている行田市は
足袋の名産地として全国の約八割の足袋を生産していた事は皆ご存知であろうか?
実はこの足袋作りにも水源が深く関わっておるのだ。
埼玉県は海無し県と言われておるが、海とは切っても切れぬ深い関係がございまする。
関東平野を俯瞰で見ると西及び北側に発達した山々をひかえ、東及び南側は太平洋に面し、
その中央部を広大な平野が占める地理的環境を有しておる。
ゆえに、背後の発達した山地から北に流れる「利根川」や関東平野のど真ん中を流れる「荒川」をはじめ
諸河川は全て同じく太平洋へと繋がっておった。
それらの河川では、電車や車が登場するまで多くの船が最速の交通手段として使用され、
江戸をはじめ、海を通じて全国と繋がってきたのだ。
明治時代になると星川から目沼代用水を通じで客貨の運搬が始まり小沼河岸とよばれた下町の船着場も賑わいを見せ始めたものだ。
塩魚、鰹節、砂糖、密柑などの荒物雑貨が荷揚げされたり、
木炭や穀物を積み込んだりと経済や生活にも大きく関わりを持つようになって参った。
しかしながら武蔵国の民の経済や交流に味方してくれた河川たちも、時に我々を苦しめる事があった。
それが河川の氾濫である。
利根川は江戸の近くで荒川や多くの大河川と合流していたため、度々氾濫が起きておった。
武蔵国はは水浸しになってしまうことが幾度もあったのだ。
だが、その河川の氾濫こそが、行田を足袋のまちへと発展させた始まりなのである。
利根川、荒川の二大河川に挟まれた行田市周辺では度重なる両河川の氾濫で堆積した砂質土、
そして豊富な水、夏季の高温が綿や藍の栽培に適していたことから、藍染の綿布生産が盛んとなった。
これを原料に足袋作りが始まったのだ。
綿花の栽培と地織の発達で綿布の入手が容易であった為だけでなく、熊谷宿が領内にあり宿場町であったことで生産、販売が容易となり足袋作りを盛んにする後押しとなったようである。
江戸時代には好敵手の居ない東北や北海道にも販路を広げたり、軍事用足袋の大量受注を受けるなど大きく生産を伸ばしていったのだ。
もちろんそれに伴い、足袋を保管するための足袋蔵も次々と建てられていった。
そして日本一の足袋産地「足袋蔵のまち行田」と知られるようになったのだ。
「忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時折ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約三百年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋はやがて名産品として広く知れ渡り、最盛期には全国の約八割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等歴史的建築物が残り、趣きある景観を形づくっている。」
これが日本遺産に認定された行田のストーリーなのである。
この歴史は海と繋がる利根川、荒川の恩恵と言っても過言ではなかろう。
時代を超えても水攻めに負けず、むしろそこから生み出したもので
また新たな歴史を紡いでゆく。
是非1度、埼玉県内唯一の日本遺産のまち
行田へ足を運んでみては如何かな?
行田市観光PR隊「忍城おもてなし甲冑隊」
成田家家老
行田文化探索武将